「情報社会と倫理」を倫理学の立場で担当して

中岡 成文(大学院文学研究科・臨床哲学)
nana@let.

1.概要

 平成13年度に新設された共通教育科目「情報社会と倫理」を3コマ担当することになった。私の専門からすると、授業ではやはり哲学的・倫理的問題を教えるということになる。いろいろ考えた末、文学部の方で好まれる(情報)倫理的論点を学生に抽象的に講述するよりは、具体的な場面を想定して、「問題発見・問題解決」の能力を受講者が自ら身につけるように刺激し、促すというやり方をとった。これは文学研究科で展開中の「臨床哲学」の発想に基づいたやり方である。

2.生きる場面で倫理を感じる

2.1 倫理とは知識ではない

 このごろ、情報倫理以外にも、企業倫理とか、医療倫理とか、いろいろ言われるが、倫理とはいったい何だろうか。法律を守ることとどう違うのだろうか。このような角度から、情報「倫理」について考えてもらいたいと思った。
 倫理とは、とりあえずは、道徳的な決まりを守ることといってよい。しかし、その「決まり」はいつも明白とは限らない。現代のような複雑な社会では、「いまの自分がどんな問題に出会っているのか、どんなジレンマに直面しているのか」を正しく見抜く力をまず持たなければならない。
 つまり、「倫理的知覚」をみがかなければならない。そのために、日常生活で出てくる具体的な場面を受講者自身にいろいろ想定してもらい、その場面ではどのようにふるまうのが倫理的であると考えるか、語ってもらう。要するに、倫理について学ぶとは、何か知識を身につけるというより、考える訓練をすることである。

2.2 具体例で考えるーー倫理は「迷惑をかけないこと」とイコールではない

 ここでも、情報倫理に的を絞る以前に、一般に生きる上で自然に身につけているはずの倫理感覚に気づいてもらい、それを表現してもらうことを目的としている。たとえば、   「自分の趣味のためには何をしても許されるか(お金さえ出せば、人に迷惑をかけなければ)?」  具体的体験に触れるものとしては、「コミックの愛読者がコミック古本を買う。これは〈倫理的〉か?」という問題が考えられる。この問いの背景には、コミック古本の大量の流通が、コミック作者や出版会社の経済状態を悪化させ、ひいては読者の好きな(良質の)コミックが作られにくい状態になっているという訴えがある。  さらに次のような問いを投げかけた。
 「横断歩道が赤信号だが、車は来ない(だから渡っても安全だと判断される)ときに、あなたは渡りますか」
 「一人ではなく、小さな(判断力のない)子どもを連れていた、あるいは子どもが見ていたとして、あなたは渡りますか」
 すると、受講者から活発な発言があった。その中で彼らは現代社会で生きるうえでの多くの論点に気づいたと思われる。とくに次のような点である。
  1. 自分にとって、また周囲の人々にとってのリスクの評価
  2. 交通規則を守ることの意味
  3. 一般に社会の規範(法律や慣習)を守り、社会秩序形成に寄与することと、個人の自主性を発揮する   こととの関連(場合によってはジレンマ)
  4. 他人との関係性のうちで自分の倫理的態度を見直すことの必要性
 繰り返すが、上にあげた2つの問題はそれ自体として情報倫理に属すとはいえない。しかし、現代社会に特有の複雑な仕組みから来る落とし穴に気づくという点からしても、情報倫理への導入として適当なものであると考える。

3.迷惑メールはなぜ迷惑か

 2回目の授業では、より情報倫理に固有な問題、とくにいわゆる迷惑メールをどう考えるか、どういう態度をとるかについて、受講者に議論してもらった。
 まず迷惑メールの定義について話し合った。「大量すぎる」ことなどがとりあえずこれに当たると思われるが、掘り下げて考えてみると、「なぜ迷惑メールは「迷惑」なのか」は決して自明ではない。これに関連して授業担当者からいくつかの観点を提出し、受講者からもさまざまな意見をもらった。それらを総合すると次のようなことになる。
 そもそも望んでいない情報が一方的に送りつけられることにいらだちを感じる人も多い。それを相手にしない、すぐ削除するという対応をとればいいのだが、それ自体わずらわしい。またアメリカや台湾在住者名義の怪しいホストから送られてくるメールに対しては、これに連絡しても対応は期待できないという指摘も出された。その他、受信者が望まないのに通信料がかかってしまうことも「迷惑」な要因である。
 その他、明らかに「違法」な手段で送りつけてくる場合(中継を悪用する、アドレスを詐称するなど)がある。これに対しては受け取り側(サーバ、利用者)の注意も必要である。なぜなら、悪用を許すような態勢になっていることのために、責任を問われる可能性があるからである。
 さらに、受講生はあまり気づいていなかったようであるが、コンテンツ自体の倫理性(いわゆる出会い系サイトの場合など)も当然問われなければならない。また、このようなケースと、児童ポルノなど違法性の高い情報を自分で取りに行く場合とはどのように区別すべきかについても触れた。
 他の社会生活に関してと同様、情報倫理においても重要なのは常識であろうが、常識だけで事足りるものではあるまい。常識ですべてが片づくならば、倫理学者の出番はなくなる。いろいろな意味で掘り下げて考えてみなければならない。
 いったい「迷惑」なものは規制すべきなのだろうか。ここでは情報の流通や、商業活動の自由な発展との兼ね合いを考慮しなければならない。低価格で大量にメールを送るシステムを開発することには努力と費用がかかっていることも忘れてはならない。
 しかし、倫理学者としては、「なぜ「迷惑」なことをしてはならないのか」をこそ考えて欲しいのである。
いわゆる迷惑メールを大量に送ることでサーバのダウンなどを引き起こす。これにどう対処したらいいのだろうか。サーバーをダウンさせるという点では、コンテンツが明らかに社会的に有用である大容量のメール(たとえば論文)を発信するのも同罪といえる。これに対して、サーバをダウンさせること自体は必ずしも悪くないと答えることも可能であろう。その理由は、サーバの能力の問題なのだから、技術的に解決可能であり、送り手が自主規制する必要はないということである。反面、サーバダウンという結果を予想していて送信するのは、やはり悪いことであると、重ねて断罪することもできる。この論理からすると、不都合な結果を予想できていないなら、当人には責任はないということになる。他方、ここでは詳論しないが、ネットの利用者として予想すべき事を予想していないことは、それ自体が悪いという考え方もあるだろう。

4.改めて、倫理的・道徳的とは何か

 3回目の授業では総括的に、情報社会において倫理的・道徳的とはどんなことかを改めて検討してみた。具体的なケースではいろいろな迷いが生ずることも多い。加入者が予測していない、また必ずしも喜びもしないメールを大量に送信することが「けしからん」とすれば、〈道徳的〉な意味内容を持つメッセージ(たとえば「アメリカが報復に戦争を起こしたのは間違っている」というふうな)をばらまくことも、出会い系サイトのそれと同じように「けしからん」かどうか。そこで大切なのは、「ある行為の結果が自分に跳ね返ってくると仮定すれば、自分がその行為をしないような」、そんな行為をしてはならないということであろう。自分の行為が「普遍化可能」であるかどうかを熟慮することが、やはり基本的原則となると思われる。