情報倫理の視点

田中 規久雄(大学院法学研究科 法情報学)
kikuo@law.

1.はじめに

 すでに前世紀末から、21世紀の先端領域として「環境、福祉、情報」の三領域が注目されるようになった。これらは、地球社会の急速な変化に対応して、人類が意識的に対応していかなければならない課題である。しかし、経済原理=自由市場に委ねておくだけでは効率的に人類の福利に貢献することが難しいため、なんらかの規範的フィードバックが必要だと考えられたのであろう。上記三領域にほぼ対応して「環境倫理学、生命倫理学、情報倫理学」という三領域が、「応用倫理学(applied ethics)」として構築されている。
 いずれも重要な課題ではあるが、ここでは情報倫理を考える際の様々な視点から、二つを選んで簡単に触れてみたい。

2.情報倫理と専門職倫理

 現代的な応用倫理領域の一つの特徴として、各々の立場に応じたそれぞれの「倫理」が各個人に求められているという点がある。つまり、情報倫理でいえば「情報科学技術に携わる専門家、職業人」だけではなく、情報機器を利用する「ユーザ」にも倫理が求められている。環境や福祉の領域もそうだが、かつてはこうした領域で倫理を考えるといえば「専門職倫理(professional ethics)」を考えるのが常であった。たとえば、医者の倫理、弁護士の倫理、経営者の倫理、公務員の倫理、科学者・技術者の倫理などといったものであって、患者、依頼者、労働者、住民、消費者などの倫理が説かれることはあまりなかったように思う。しかし、今日の複雑化した社会においては、専門職やその分野にかかわる職業人だけの努力で問題を解決するにはあまりにも負荷が大きく、情報科学技術の分野においても、本来はその成果を単に享受するだけでよかったユーザにも若干の負荷を転嫁することにより総体としてのコストを下げようというわけである。
 この間の事情については、[図1]に示されるネットワークの管理コストの概念図が端的に示している。すなわち、ネットワークの爆発的な拡大にも関わらず、技術的な意味での管理コストはシステム開発が進むことで対数的にしか増加しない。それに対し、経済的にも技術的にも敷居が低くなることによって、かつては少数であったユーザが、爆発的に、それもスキルの低下をも伴って激増し、ネットワーク利用上の管理コストは指数的に増加するというのである。
 このコストをすべて専門職、専門業界の側だけで負担すると100の負荷がかかるとする。しかし、ここでユーザ側に1の負荷をかけることにより、専門家、業界の側の負荷が60ぐらいで同程度の解決が得られ るといった具合であろう。環境対策で、コストを住民側にわずか転嫁するだけで、企業側の対策コスト を大幅に減少させられるのと同じ原理である。こうした事情から、ユーザモラル(=倫理?)を説く声が高まり、それが一般に「情報倫理」と呼ばれるようになったiii。この管理コストの核心をなす「情報セキュリティ手段」の一つとして、技術的対策、法的規制とともに、情報倫理(教育)を挙げる識者は多いiv。それゆえ、今日説かれている「情報倫理」とは、交通道徳と同様なセキュリティモラルのことであるとの指摘もあるv。確かに、様々なサービスすべてについていえることであろうが、提供者の側にだけではなく、受領者(消費者)の側にも一定の義務と責任は常につきまとうものである。
 だが、そのことにより「情報倫理」の名宛人が利用者(消費者)だけであるかのように捉えられるのは問題であろう。情報倫理の名宛人はまずもって、専門家であり情報社会をリードした責任を負う人々、すなわち、情報科学技術者、専門職業人、情報政策担当者なのであり、古典的な専門職倫理がまずは追求される必要がある。情報倫理学においては「『高度情報社会』における『責任』概念を哲学的、倫理学的に再構築する必要がある」viとの指摘にはそうした含意がある。フランスの哲学者ポール・ヴィリリオは、情報化の危険性を原子爆弾と並べて、「情報化爆弾」とまで呼んでいるがvii、その意味では消費者の情報倫理といえども、情報科学技術の専門家が原子爆弾を開発した科学者たちの轍を踏まないように彼らのアカウンタビリティを問うという、「専門職倫理の追求」をその本質とするのかもしれないのであるviii。とはいえ、一般消費者は通常、専門家に対しては情報弱者であり、専門家の倫理を問うにしても、そもそも何を問えばいいのかわからないことが多い。それゆえにこそ専門家自らの情報倫理が重要になるのである。
 身近な例でいうと、たとえば組織のネットワーク管理部門がセキュリティ向上の為に、「平文でパスワードが流れるプロトコルは禁止する」という決定をしたとしよう。この際に利用者は難しいことはよくわからないので、それを甘受するのが通常であろう。しかし、それをよしとするのではなく、利用者の利便性を最大限低下させない努力、たとえば、オルタナティブなプロトコルを実装するのは倫理以前の業務だとしても、その利用方法の広報や対応クライアントソフトの開発、提供などを積極的に行うことが専門家の「情報倫理」となるのであろう。
 そうした専門家、職業人の倫理と利用者、消費者の倫理の双方がタイに追及されていかなければ、「情報倫理」は単なる「情報社会の朱子学」と化してしまうのではないだろうか。

3.情報倫理と情報法

 次に、情報倫理と情報法の関係について、少し触れておきたい。というのは一般に「法と倫理(道徳)」が混同されることが多いからである。確かに情報法も情報倫理も、対象とする社会現象は非常に似通っている。たとえば、電子情報と電子ネットワークに関わる、個人情報、プライバシー、知的財産、名誉毀損、わいせつ表現、不正アクセスの問題等々である。しかしそれらを法的問題とみるか倫理的問題とみるかでは取り扱いはまったく異なる。というより、結論的にいうと、「法」と「道徳」を直交した価値として極力捉えていく努力が大切なのだ、ということがファシズムの反省から生まれた戦後法実証主義(legal positivism)の精髄なのである。倫理が法に突入してくる原理的な問題は、原則として「遵法は善である」という命題なのであるが、ソクラテスはこれを認め、ポリスの法に従うのが「善く生きる」、すなわち倫理的な行為だとして毒杯をあおった。しかし、今日の法実証主義はそれら法と倫理をあくまで相対的に捉えようとするわけである。また、倫理に何らかのサンクションが伴うかどうかには議論があるかもしれないが、少なくとも法は、心の中はどんなに非倫理的であっても、あるいは法に対してなんらの価値を感じていなくても、それに反しさえしなければ法的サンクションはない。そうでなければ、法の支配も法治主義もあったものではなく、近代社会を否定することになるからである。
 単純化していえば「合法で道徳的だ」、「合法だが不道徳だ」、「違法だが道徳的だ」、「違法で不道徳だ」という行為があり得る。というより、そう捉えることが可能でなければならないというのが現代の市民社会倫理なのだと考えてもよいだろう。
 不正アクセス法の立法前によく、「現行刑法では、利用権限のないサーバであっても、ネットワークを通じて単に情報を覗き見したり、コピーしていったりするだけでは犯罪にならないのは『法の不備』だ。」といった主張が見られたが、上記の原理から言えばそれは「政策の不備」ではありえても、「法の不備」ではない。当時のサーバの覗き見やファイルのコピーは、電車内での携帯電話使用と同様、法的には「合法だが」、倫理的には「不道徳だ」という行為であったに過ぎないからである。逆に、例示は難しいが、「違法だが道徳的」な不正アクセス(?)もあり得ると前提できる社会でなければならないのでもある。
 また、比喩としての「情報窃盗」といった表現にも抵抗を感じる。「窃盗」という法的言説を用いることにより、犯罪でないものに犯罪的なラベリングをしてしまうのではないかという虞を感ずるからである。
 法律家の仕事は、ある行為が道徳的であろうがなかろうが、「合法なものは合法」、「違法なものは違法」と明確に切り分けることであって、そこに倫理を混入させることは法の自殺行為なのである。情報倫理に関わる専門家の方々にはこの点を十分に理解して頂きたい。
 その意味では、法との峻別が明確になされる限りにおいて、様々な立場からの「情報倫理」の主張がなされることは必要であり、重要なことである。なぜなら、法は倫理に対しては無力である(べきである)からであって、専門家であろうと利用者であろうと、彼らが職業人生や情報社会において「善く生きる」ことは、法によっては決定されないからである。

4.おわりに

 最後に、マイナス面の是正や「べからず集」といった暗い側面をイメージしてしまう情報倫理だけではなく、たとえば、「インターネット利用者は自分にできる社会への寄与として、できるだけ情報発信しよう」といった、もっと前向きの明るい(善く生きるための)情報倫理の構築も期待したい。
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  1. 加藤尚武『応用倫理学のすすめ』1994年、参照。
  2. 相原玲二「ネットワーク管理の限界」、越智・土屋・水谷編『情報倫理学』2000年、146頁。
  3. 1995年の私立大学情報教育協会(私情教)『情報倫理概論』<http://www.shijokyo.or.jp/LINK/report/rinri/mokuji.htm>あたりで完全に市民権を得たように思える。
  4. たとえば、平野耿「情報選択の自由と責任」、廣瀬英彦編『情報の倫理』2000年、190頁-、など。
  5. 越智貢「『情報モラル』の教育」、前掲注2書、199頁-、参照。
  6. 水谷雅彦「インターネット時代の情報倫理学」、前掲注2書、11頁。
  7. 丸岡高弘訳、ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』1999年、171頁‐、参照。
  8. 名和小太郎『デジタル・ミレニアムの到来』1999年、170頁-、参照。