授業担当教官の声

情報リテラシーと適塾精神―人科の専門基礎教育を考える―


米谷 淳(人間科学部 非常勤講師)(神戸大学 大学教育研究センター)

1.心理学測定

 私は人間科学部(略して「人科」)第3期卒業生であり、学部生、院生、助手をあわせて14年間阪大におりました。その後、他大学の教員となり、しばらくして人科の「心理学実験測定」(1年次、後期2コマ)を非常勤で教えることになりました。それから約10年になります。
 「心理学実験測定」は「心理学測定」に名称変更されましたが、相変わらず行動系や教育心理学講座を希望する学生の必修科目であり、伝統的にハードさが売り物の試練の場となっています。その目的は心理系の講座に進む学生に科学としての心理学の方法を基礎から習得させることですが、同時に、新入生に「大学は遊べる」という気持ちを捨てさせ、心理学へのモチベーションを試し、自学自習の態度を身につけさせるというねらいをもっています。ですから、3カ月以上に及ぶ「毎週実験、毎週レポート」という生活に耐えきれずに途中で脱落する学生も少なくなく、希望者多数のために振り分けが必要となる行動系や教育心理学講座にとって、やる気や勉強態度に問題のある学生を振り落とす「ふるい」としての役割を担ってきました。
 「心理学測定」は毎年140名をこす人科の学生が受講しているため、2クラス制にして、人科出身の先輩である2名の非常勤講師が、それぞれ、心理学実験とデータ処理について実習を受け持つことになっています。私は最初の頃は心理学実験を担当しておりましたが、ここ3年はデータ処理を担当しています(表1参照)。

表1 「心理学測定」の授業要項
平成11年度人間科学部「心理学測定」(データ処理の部:担当 米谷)

ねらい
これから心理学を専攻しようとする学生に、研究上必要なデータ処理技法の基本を
NeXT上のSASを用いた実習を通して習得させる。

授業計画 各クラス5回(月曜日3・4限)
.データ処理の基礎[心理学研究法、4つの尺度、記述統計、SAS入門]
.標本と推定[推測統計、母集団と標本、不偏推定統計量、中心極限定理]
.仮説と検定[正規分布、t検定、独立・従属2集団の平均値の差の検定、
分散分析]
.相関とモデル[心理学のモデル、カイ2乗検定、相関係数、回帰分析]
.多変量と少数データの処理[因子分析、ノンパラメトリック検定]

注意
毎回出席。毎週レポート(メールで提出)。グループ作業重視。

2.適塾精神

 大阪大学の前身である緒方洪庵の適塾は自学自習、切磋琢磨、共同研究の精神で数多くの俊才を
排出しています。阪大も伝統的にこのような精神を校風としてもっていると私は思っています。毎年の「心理学測定」ガイダンスの際、後輩である人科新1年生を前にして、こうした「適塾精神」を訴え、次のようなことを言うことにしています。
 「質量ともに国立大学としても抜群の施設・設備(情報処理教育センターも当然含まれる)を誇る阪大に入学したからには、それを最大限に利用して自らを鍛え高め、成果を出すことは君たち阪大生の使命である。しかし、誰もやさしく手とり足とりしてくれるわけではない。自ら進もうとしない者は置いていく。この授業でも次から次に試練がまっている。きついけれども、やり抜けばかなりな基礎力が身につくことは間違いない。一生懸命頑張ってついてきてほしい。そして、この関門を突破して、プロの心理学者となるために十分なやる気と基本的能力があることを示してほしい。」
 私が人科2年生の時に受けた実験実習で、これに近いことを担当教官(やはり人科の先輩)から聞かされました。いつのまにか「言う側」になってしまったのだと思うと感慨深いものがありますが、この伝統は受け継いでいくつもりです。
 人科の気風は、私が人科にいた頃は、好奇心、柔軟性、進取の気質というポジティブな面と、飽きっぽさ、支離滅裂、軽さというネガティブな面とがないまぜになっていました。私が14年も阪大にいたのは、阪大の校風と人科の気風がアダプタビリティーとバイタリティーとチャレンジング・スピリットだけが取り柄の私の性格とマッチしたからでしょう。そして、こうしたマインドを刺激し、挑発し、満足させてくれる環境が阪大にあったからだと思います。

3.情報環境とコンピュータ・リテラシー

 ところで、私が阪大に入学した年は悲惨な年でした。授業がまともに開かれたのは3カ月間であり、その後はバリケードが築かれて校舎に入ることができませんでした。授業がなかったので、1年生の頃は、仕方なく情報処理や統計実務等の通信教育を受けたりしました。そんなわけで、私の学生時代は大学2年から本格的にスタートしたのですが、その時の出会いと経験は十分に大学1年の空白を埋めて余りあるものでした。2年になってからあることがきっかけで、当時、教養部におられ、「心理学実験測定」を担当されていた吉田光雄先生と出会い、統計やコンピュータを直接教えて戴きました。吉田先生のご配慮で大型計算機センター分室(現在の情報処理教育センターの場所)でフォートランカードにデータやプログラムを打ち込み、大型計算機を思う存分使うことができましたし、吉田先生が作成されたデータ処理プログラムを使わせていただくことができました。電卓を使った手計算が日常であった時期にコンピュータの素晴らしさを体験できたことの意味は実に大きかったと思います。
 その後、私が院生時代にパソコンに熱中し、助手時代に実験機器のコンピュータ制御やパソコンや大型計算機でのデータ処理に明け暮れ、大学でそれを教えるようになったきっかけは吉田先生と大型計算機センターや情報処理教育センターという情報環境にあったのだと思います。助手時代に、吹田の情報処理教育センターにIBMのパソコンが整備され、人科にSASやBINTNETが使えるIBM端末が入りました。それまでは大型計算機センターに出向いてSPSSを使用してデータ処理を行っていましたが、人科の端末から使えるようになったSASはユーザー・インタフェースがゆきとどいており、使う度にその使いやすさに感心させられ、すぐに夢中になり、その後、関西SASユーザー会の幹事をするほどのファンになりました。また、インターネットが盛んになる何年も前から、BINTNETで世界中のどこにでも電子メールが出せることを体験したことも私にとって大きな財産になっています。
 とにかく、情報処理やコンピュータについては、阪大は私の予想をはるかに超えるスピードと質量で何かをやってくれました。そのおかげで、阪大時代は驚きと喜びの連続であり、情報処理に対する好奇心や関心を常に持ち続けることができました。夢中になるほどわくわくどきどきさせられるような環境にいれば、誰でも自然とコンピュータ・リテラシーは育つものです。阪大を去り、他の私学に赴任して、そこで学生にコンピュータやデータ処理を教えることになって、阪大の情報環境の素晴らしさを痛感させられました。
 私の赴任した私学の新学部では、データ処理に使えるパッケージもハードもなく、また、その必要性を理解する教員も多いとは言えず、むしろ、コストや場所のことばかりを問題にされて、十分な情報環境を整備することができませんでした。仕方なしに、10数台のパソコンにハードディスクをとりつけてPC版SASをインストールし、ボランティア学生をアシスタントとして募り、タイピング練習、ワープロ学習からSASによるデータ処理までの実習を課外活動として希望学生に教えるようなシステムを立ち上げました。そんな環境では学生、とくに文系学生が、驚きや感動をもって情報処理を学ぶことはなかなか難しく、満足のいくリテラシー教育ができませんでした。
 環境を用意し、課題を与えるならば、向学心の高い学生なら独りでにコンピュータの使い方を覚えるはずです。また、初めて出会うシステムだからこそ、そこら辺にある陳腐なシステムではいけないのであって、学生の想像を超えるくらいの優れた先進的なシステムでなければならないと思います。そうしたシステムに触れ、驚き、感動した学生が、次の新しいシステムを作っていくのです。私は、夢や希望を与えるような情報環境の中で学生時代を過ごしたことに感謝していますし、そうしたことを理解し、絶えず新しいシステムを取り入れようとする母校の風土を誇りに思っています。

4.これからの専門基礎教育と情報リテラシー

 これまではコンピュータを使うための基礎能力や基本的態度であるコンピュータ・リテラシー形成が入門期の情報教育で力を注ぐべき課題となっていましたが、今では、単に計算やデータ処理のためにコンピュータが使えるだけでなく、他の人々と情報を交換したり、広く情報を公開したり、世界中から必要な情報を集めたりするための手段として、あるいは、知識の源や表現手段として活用できるような総合的能力、すなわち、情報リテラシー(これには情報倫理も含まれる)をバランスよく身につけさせることが重要な課題となっています。
 私の授業はこれまで情報処理教育センターでさせていただいておりますが、このような理想的な環境で人科の後輩達に情報リテラシーを身につけさせることができることを感謝しております。私の授業では、学生には1人1台NeXT端末を使用させ、授業中も授業後も、できるだけNeXTのさまざまな機能に触れさせるよう心がけています。連絡や課題提示、資料・教材配布(模範レポートの公開も含む)はすべてNeXT上で行っていますし、 レポートや小テストは電子メール(学生はOceanのStudentを使用)でしか受け付けません。また、班ごとに電子メールでデータを交換したり、集めたりする課題を設け、グループでデータ処理の作業をさせるように心がけています。
 こうしたやり方にすることについては不安もありましたが、最初からほとんどの学生が課題をこなします。なぜか脱落者の数も最近では減っており、NeXT上ですべての作業をすることについて
違和感をもつ学生がほとんどいなくなりました。これは1年次前期に情報処理の授業でNeXTを学んでいることもあるでしょうが、高校時代からコンピュータや電子メール・インターネットに馴れている学生が増えてきたからかもしれません。授業中、私が説明しているときにあちこちの席からカタカタいう音が聞こえてきます。これは学生が遊んでいるのでなく、講義ノートをリアルタイムで直接NeXTで書いているからなのです。こうした学生が出現していることには戸惑いも感じますが、たのもしくもあります。
 阪大の情報処理教育センターの変化、否、進化は教える側となった私も、非常に関心をもっています。それは、センターがいつも何か新しいこと、ユニークなことにチャレンジしているからであり、「未来の先取り」をしているからなのです。 ときどき期待を裏切られることもありますが、いつも発見があります。10年前、ここに来て、NeXTシステムに初めて出会い、ノヴァ(NOVA)という教育支援システムに触れ、ひどく感激したことを今でも覚えています。しかし、その頃は、ネットワークには問題があり、何台も同時にSASを使おうとしてシステム・ダウンの憂き目に何度も会いましたし、電子メールでレポートを提出させようとして私のファイルがパンクしたこともありました。その後、ハードが更新されて、そうした障害があまり起きなくなりました。気に入っていたNOVAはなくなり、TeacherとStudentのシステム(Ocean)になってしまいましたが、それにもようやく馴れてきたところです。こうした教育支援システムも、ハードの進化と共に、進歩するだろうと期待しています。「心理学測定」ではデータ処理だけでなく、 今後はマルチメディアやデータベースなどを取り入れ、プレゼンテーション技法(シミュレーションやホームページ作成も含めて)を習得させてみたいと思っています。
 情報リテラシーは心理学の基礎基本のひとつであり、それを培い維持向上させていくシステムとしての情報環境は、心理学のスペシャリストとなるためにも、そして、心理学研究をするためにも絶対に不可欠な要素だと考えます。期待に胸をふくらませ、目を輝かせて大学に入ってくる1年生に、優れた先端の情報環境を提供し、チャレンジングな情報教育を行うことは、それだけでも大いに専門基礎科目としての役割を果たしていると言えるでしょう。朝から晩までいつでも使え、困ったときには手を差しのべてくれる優秀なSAが常駐する情報処理教育センターは、今の阪大生の「適塾精神」の大きな支えになっているものと考えます。常に革新を求め、いつも新鮮でユニークなことを追い続ける阪大の情報処理教育センター(改め、サイバーメディアセンター)が、今後も人科の学生の好奇心とチャレンジ精神の源となっていくことを心から願っています。